感じる感じ方は「おや、すてきだぞ」か「あれ、ひどいな」の二通りしかない。

高橋源一郎の本

さようなら、ギャングたち

わたしが詩を読む時、
感じる感じ方は「おや、すてきだぞ」か「あれ、ひどいな」の二通りしかない。
他には、
ない。

―高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」


これは今からかれこれ40年(!)も昔の1981年、
第4回群像新人長編小説賞優秀作に選ばれた高橋源一郎氏のデビュー作『さようなら、ギャングたち』の一節。

ボクも詩に限らず絵でも本でも音楽でも見たり読んだり聴いたりする時に感じる感じ方は、
「おや、すてきだぞ」か「あれ、ひどいな」の二通りしかない。

他には、
ない。

「わからない」という『ものさし』

ものさし

でも「なんだかよくわかんな~い」、
という人たちだってもちろんいる。

どんな『ものさし』で捉えるか?
は人それぞれだし勝手だとは思う。

でもボクの勝手な『ものさし』で言わせていただくと、
そもそもそういうのって『わかる・わからないの対象』なんだろうか?となる。

頭で考えてわかるわからないと言っているのではなくて、
まんま感じてみれば良いのになと思う。

例えば、
何処かの美術館に行ったとする。

ずらりと展示された作品たち、
それらをひとつずつ丁寧に見ていく。

そうすると、
感じるのは「これはすてきだぞ」か「こっちはひどいな」ということだ。

そして「おや、すてきだぞ」の作品は、
もう1度戻って今度は更にじっくりと見ることになる。

場合によっては更にもう1度、
更にもう1度と何度も行ったり来たりということになる。

この場合の「おや、すてきだぞ」の作品は、
有名・無名とか評価が高い・低いとかはあまり関係ない。

自分に合うか合わないか?
だけだ。

もちろん、
そこには程度の差はあるけど。

確かに、
いろいろと知識がある方がより楽しめるかもしれない。

例えばそこに何かしら巧妙に隠された作者の意図があれば、
知らないよりは知っている方がやはり楽しいだろう。

でもその意図が何であれ、
最後に残るのは「おや、すてきだぞ」か「あれ、ひどいな」の二通りしかない。

他には、
ない。

だから『わかる・わからないのものさし』を持ち出して、
何だか全然わからないね~止まりで終わってしまうとちょっとつまらない気がするのだ。

わからないならわからないで済ませればいいじゃん

意味わかんない

そういう『ものさし』でものごとを眺めるのは、
もちろんその人の勝手だ。

まあ、
その「よくわからない」を自分の中で収めている分には何の問題もない。

考えることもできなければ、
感じることもできないんだから収めていれば良いのにね。

ヤバいのは、
感じないことを棚に上げてわからないと批判したり馬鹿にすることだ。

何も考えられないし感じないんだからスルーすれば良いのに、
敢えて『わからない』とダメ出しを始めたりするのだから困ったものだ。

ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け

ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け

「俺、詩って苦手なんだよな」
「あたしもよ、詩を読んだ時に感じることっていうのは二通りしかないのね。
おや、すてきだぞと、あれ、ひどいなの二通りよ」
「ん~、わけがわからんていうのはないのか?」
「私はそういう風には考えないことにしているの」

―ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け

ところでこの『さようなら、ギャングたち』とその後の『虹の彼方に』と『ジョン・レノン対火星人』三作は、
1986年にボクの大好きな映画『ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け』の元となる。

この映画、
きっと「何コレ?全然わからない」となる人が多いかもしれない。

でもボクは、
ただ単純に「おや、すてきだぞ」と感じるのだ。

どこが面白いの?なぜこれが好きなの?という人もいるんだけど、
別に『どこ』も『なぜ』もない。

取って付けた説明くらいならできるかもしれないけれど、
そんなことになんの意味もない。

そこにあるのは、
ただ単純に「おや、すてきだぞ」だけだ。

できればボクは、
そういうモノ・コト・ヒトに囲まれていたいと思う。

屁理屈の理屈なんて、
全くもって必要ないのだ。

♫ ZELDA

さて、
その『ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け』の中で流れていた曲を続けて聴こう。

映画の中でも本人たち役で出演していた、
ZELDAだ。

今聴いても、
良いものはやはり良い。

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